クリスチャンが酒もタバコものまないというイメージは、たぶんキリスト教のある教派の、とくにアメリカから日本に伝えられた、敬虔なクリスチャンのグループの教えに由来するのでしょう。その人たちを私は尊敬しますが、でもクリスチャンが皆そうだ、と言うわけではありませんよ。ドイツに行くと、ビールやワインが修道院付きの酒倉で造られていたりして、昔から修道院で造る酒はおいしくて有名でした。
カトリックは聖書をほとんど読まない キリスト教には、 プロテスタント と カトリック があります。 プロテスタントは、カトリックに「プロテスト= 抗議 」して 宗教改革 を起こし分かれた宗派です。 罪のゆるしとなる、と言うより、罪によって傷ついた世界を癒す、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。つまり、キリスト教の信仰は、イエスの死が神の救いのわざだった、と理解するところに始まります。イエスの死を通じて、罪の力に縛られた人類の悲惨を、神御自身が担ってくださった、という理解です。だから、「贖い」という古めかしい言葉も、正しく理解すれば、真実をうがっていますね。 私は、キリスト教以外に救いがないなどとは決して考えていません。神はすべての人間をお造りになり、すべての人間の救いをお望みになっておられるのですから、どんな人であれ、一生けんめい求める人は神に向かっているし、神を見いだすと思います。ちょうど山から流れる水が、さまざまな川を通っても、最後は同じ海に流れこむように。 今日の聖書の言葉201508.24昔は文字が読めない人や、聖書が手に入らない人も多かったはずですよね。さて、現代でも、聖書を読まないで信仰する事があり得るか?というご質問に対し「信じる」と「救われる」という言葉を分けて考えていきます。信仰していても、何か間違った理解をしていて、実は救われていない!なんて悲劇のないように・・・。聖書に簡潔に書かれている「救いの条件」をもう一度確認します。テキストで読むキリシタンは聖書を読まずに信仰していたのですか。現代でも聖書を読まずして信仰することもあり得ますか。「信仰する」という言葉と、「救われる」という言葉を区別しながら、お答えします。いつものように3つ申し上げます。 (1)「信じる」という言葉は、信じる対象を問題にしていない言葉です。(2)人は、自分が信じたいものを信じるものです。(3)従って、聖書の内容を知らなくても、信じることは可能です。 (1)この場合は、(2)救われるとは、「神の怒りから解放される」ことです。(3)「 ①イエスは私たちの罪のために死なれた。 ②死んで墓に葬られた。 ③3日目に復活された。(4)聖書の内容は複雑ですが、救いの条件に関しては簡潔に書かれています。(5)いかに聖書知識があっても、福音を信じていないなら、救われていません。(6)信じていても、救われていない人がいるということです。 (1)信者として生活するための判断力が育ちません。(2)神の計画の全貌を理解しないと、生きるための動機が生まれて来ません。(3)キリストに似た人格が育ちません。 聖書を読まなくても信仰することは可能ですが、福音を信じなければ救いはありません。もっと詳しく知りたい方はあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です(エペソ2:8)聖書箇所の引用には新改訳聖書を使用しています。その他の場合は明記いたします。 この御質問は、もう大昔から、何度も何度も繰り返されてきたものです。創価学会の折伏の手引書にすら、キリスト教の誤りを指摘する一つの論拠として挙げられていて、イエスが自分の敗北を認めているではないか、というのですね。でも、キリスト教を敵視する人だけでなく、むしろキリスト者たちにとって、これはあまりにもみじめで、痛ましい言葉で、もう福音書の書かれた時代にすら問題となっていました。だから、マルコやマタイの福音書はこの言葉を記していますが、イエスのやさしい姿を描こうとするルカや、神の子の荘厳な死のありさまを描こうとするヨハネの福音書では、他の言葉に置き換えられています。だからこそまた、イエスが十字架の上でどれほど苦しみ、孤独のうちに死んでいったか、これは歴史の事実だと言ってもよいでしょう。 いや、ここにも同じような誤解があると思います。やはり日本のクリスチャンには、まじめで熱心な人たちが多くて、それだからこそ評価されてもいるのでしょうけれど、やはり土着しないで伸び悩んでいる理由も、そのあたりにあるかもしれませんね。そもそもイエス自身は、むしろ弱い人、貧しい人、病んでいる人、身寄りのない人、罪を犯して自分でも駄目だと思って落ち込んでいたり、他の人からも白い目で見られている人、社会の片隅に追いやられている人のところに進んで出かけていって、この人たちの友となりました。聖書には、しばしばイエスが罪びととして嫌われた人々と交わったことが伝えられています。当時のユダヤ教のエリートたちからは、「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15の2)と批判されています。食事をともにするということは、ユダヤ人にとって、ただ一緒に食べるというだけでなく、特別に親しい交わりを意味していました。いわば運命をともにする、ということを表していました。 そうですね、キリスト教のことを知るための一番の近道はやっぱり、その原点となっているものを知ることではないでしょうか。つまり、キリスト教の原点とは、イエス・キリストです。イエスがどのような人であったか、どのようなことをなし、どのようなことを語ったか、そして、どのように生き、どのように亡くなったか、これを勉強することがまず大切だと思います。
Q カトリック教会では、第2バチカン公会議以前は、信徒に聖書を読ませなかったと聞きました。 本当にそんなことがあったのでしょうか。 A おっしゃるような批判はありました。 聖書原理主義者たちがよく使うフレーズですが、事実は若干異なります。
キリスト者は「主の祈り」の中で、「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦したまえ」と祈ります。この祈りはマタイ福音書の「山上の説教」から取られたものですが、新共同訳によれば、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイ6・12)と言われています。また、これに続いて、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(6・14~15)と言われています。 もちろん聖書を文学として読むことは許されるし、多くの人がそうしていると思います。そこから人生の教訓を読みとれば、有益なことでしょう。でも、キリスト者にとっては、イエスの復活はただ単に比喩にとどまりません。それは歴史の中に起こった現実のできごとです。 ルターは聖書と讃美歌を、お坊さんの手から一般民衆のものにした。ローマンカトリックの人々は無学文盲の民衆達が聖書を読むと、間違った解釈をしてはいけないから、聖書は読まなくてもよろしいと言って、民衆から聖書を取り上げてしまった。 確かに新興宗教の現象には、何らかの霊的な体験、人間を越える存在についての洞察があるのでしょう。しかし、それとイエスの弟子たちの体験が根本的に違っている点を見落としてはなりません。 はたして神は存在するか--これは、たぶん人類が地上に現れてから、いつも繰り返し問われてきた問いかもしれませんね。まず人は、何を指して「神」と呼んでいるのでしょう。間違った「神」のイメージを持ったとしたら、そんな神は存在しない、自分はそんな神を信じられない、と考えてしまうかもしれません。 福音とは、「喜びの知らせ」ということです。イエスのもたらしたものは、罪を犯した者への「ゆるし」でした。確かに罪は人間を傷つけ、ゆがめ、不幸の中に閉じこめてしまいますが、その不幸をいちばん心苦しく思っておられるのは、実は神御自身なのですね。 ちょっと待ってください。キリスト教で言う「復活」とは、ただ死んだ人が「生き返る」、ということではありません。「生き返る」ということなら、それはこの地上の生にもう一度戻ること、人間が生まれ、成長し、老い、死んで朽ちていくという自然のプロセスに逆戻りすることになるでしょう。そうではなく、復活とは永遠の生への誕生であって、いわばまったく新しい神の創造のわざのことを言うのです。キリストの復活はキリスト教信仰の真髄をなすものですが、その言葉の意味を誤解すると、馬鹿らしくて信じられないのも無理はないでしょう。 『聖書を知らないことはキリストを知らないことだからである』。」(第2バチカン公会議「神の啓示に関する教義憲章」25) 聖書は、イエス・キリストを知るための唯一の書かれた資料です。イエスを知るためには聖書を読まなければなりません。 イエスは生涯を通じて、罪びとたちの友でありました。しばしば徴税人や罪びとと食事を共にした、と言われていますが、食事を共にするということは、当時のユダヤの社会では、非常に親しい交わり、運命さえも共にすることを意味していました。イエスはそれを通して、貧しい者をご自分のいのちの交わりに招いておられる父なる神の心を代弁したかったのです。 『聖書 新共同訳』の表紙をよく見ると、「旧約聖書続編つき」と書いてある聖書と書いてないものとがあります。「続編」って、何でしょう。カトリック教会の正典には、第一正典と第二正典があります。プロテスタントの教会が聖書と認めているのは、カトリック教会の第一正典にあたる書です。カトリック教会では、第二正典も聖書と認めており、「続編」と呼んでいます。これらは「外典」とも呼ばれています。カトリック教会では、「続編つき」の聖書を使います。 まず、悪い霊が不幸をもたらしている、などというのは迷信です。人に取りついている霊を見たとさえいって、その霊をなだめる方法とか、まじないとかで荒稼ぎしている宗教があります。自然科学の発達した現代にさえ、そのような迷信がはびこるのは、物質主義の謳歌する社会の中で人間がやはり科学や技術だけで救われるものではないことを感じているからでしょう。 「むしろ、信者は聖書を読んでも誤解するかもしれないから読まないように、とさえ言われていたのです。」 ・・・は筆者が考えるには以下のような背景があるように思えます。 カトリックの信徒は、既にミサ(礼拝)に与る時に十分聖書に触れている。 仏教では「一切衆生の救済」と言って、どんなに悪いことをした人も仏の慈悲にすがれば救われると教えているのに、キリスト教が謹厳な宗教のような印象を与えているのはなぜなのでしょう。でも、イエスはむしろ、一匹の失われた羊を探して九十九匹を野に残していく羊飼いのたとえを話したではありませんか。父なる神は、一人ひとりの身の上を心配しておられる方です。一人ひとりの救いを、だれにもまして望んでおられる方です。たとえ、どんな過ちを犯したとしても、それでもって見捨てられる者はいません。 はたして本当に支障なく生きていけるかどうか、それは問題です。表面的には幸せそうに見える人でも、隠れた苦しみを背負って生きていることがありますし、無神論者だと自負している人でも、やはり人生の意味をまじめに問い続け、隠れた神への憧れを持ち続けていることがあるのに、しばしば気づかされます。キリスト教の立場から言うと、神は一人ひとりの人間をお造りになって、しかもご自分のいのちに与からせようとして招いておられますから、一人ひとりの人間の心に、ご自分への憧れを植え付けられました。だから人間は、本当に人間らしく成長するためには、神のことを知らなければならないし、神に向かって成長するときに初めて幸せを見いだすことができると思います。 昔は文字が読めない人や、聖書が手に入らない人も多かったはずですよね。さて、現代でも、聖書を読まないで信仰する事があり得るか?というご質問に対し「信じる」と「救われる」という言葉を分けて考えていきます。信仰していても、何か […]