『崩御を、あらせられました』 って、全然意味わかんなかったですけどね!! 「崩御?なにそれ?」 『崩御を、あらせられました』って、崩御っていう場所が何者かによってあらされたっていう意味か …
宮内庁の藤森昭一長官が7日午前7時55分、宮内庁3階の講堂で、小渕官房長官が首相官邸で、同時に発表した。藤森長官は「天皇陛下におかせられましては本日午前6時33分、吹上御所において崩御あらせられました。 今は昔の話しでございます。文徳天皇が崩御あらせられましたとき、陵墓の場の占いの任を、大納言安倍安仁さまが受けられました。大納言さまがお連れした占術師の中に、慈岳川人という陰陽師がおりました。川人の陰陽道の力は、古今の名だたる陰陽師に匹敵すると言われておりました。 地神の手下が、がやがやと、大納言さまと川人の周りを探し回りましたが、川人のかけた術が効いて、見付けることができません。地神は、―――――――――― 『今昔物語集』巻24・第13話「慈岳川人、地神に追わるる語」の現代語訳です。慈岳川人(しげおかのかわひと)は、陰陽頭(陰陽寮の長官)であり、陰陽博士(陰陽師の先生)という、陰陽道のスーパースターです。だからこそ、文徳天皇の陵墓の場の占いという重要な役を任せられたのでしょう。 この説話には、陰陽師譚らしい、「場」がいくつか出てきます。文徳天皇の陵墓の予定地、葬送の地として知られる「深草」、日暮れ、稲刈りの終わった田んぼと稲わらで作った山、賀茂川の川原、大みそかの夜、二条大路と西大宮大路の辻、嵯峨寺の堂の天井、一番鶏。どれも「境界性」を持った場所や時間や出来事です。このような境界は、現世と異界が交わる所で、超現実的なことが起こりやすいのです。 ところが、うがった見方をしますと、「これはもしかして川人の作戦だったのではないか?」という疑念が浮かびます。全ては、川人が仕組んだことで、天皇の陵墓の場の占いを利用して、川人や部下の陰陽師たちの地位向上を図ったのではないでしょうか。地神と思われていたものは、川人の使う式神か部下で、それを恐れる演技だけをしていたのかもしれません。また、最後に、嵯峨寺で、地神を追い払った後、川人は大納言に、 大みそかは、災厄をもたらす悪鬼を払う意味合いがあります。平安の昔のように鬼やらいの儀式はできませんから、代わりに、ちゃんと、大掃除をして、綺麗なお部屋でお正月をお迎えくださいませ。 崩御された時はすでに皇太后であらせらたのですが、当時の宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可 ※5 となったのです。 はじめにこの上奏の時点で間違いが生じました。 Powered by 引用をストックしました引用するにはまずログインしてください引用をストックできませんでした。再度お試しください限定公開記事のため引用できません。 あんパンを食べたことがない日本人は多分だれ一人としていないでしょう。それほどまでにあんパンは日本人にとって親しみのある食べものです。パンは今でこそ当たり前のように食べていますが、明治初期パン食を普及することは大変な努力があったのです。なぜかというとパンは16世紀にすでにポルトガル人によって日本に伝わりましたが、当時の日本人にはパンはお米ほどおいしくなかったのか江戸時代になっても一般庶民が食べたという記録はほとんど出てこないのです。明治になって西欧文化をどしどし取り入れるようになったのですが、それでもパンは当初庶民にはやはり好まれなかったようです。日本人で最初のパン屋を創設した木村安兵衛(現在の木村屋總本舗の創始者、明治2年「文英堂」の名で創業)はなんとかパンを普及したいと思い、日本人の味覚にあったパンはないかと考えました。そして6年の歳月を費やして発明したのが「あんパン」でした。西欧のパンと日本の餡をミックスさせた文明開化にふさわしいこのあんパンは、まだ酵母の正体が何であるかわからない当時でありながら米と糀による酒種酵母を発明してつくられたのでした。これを東京で売り出したところ大評判となり、そして木村安兵衛の親友である山岡鉄舟明治8年(1875)4月4日、お花見を兼ね、水戸家の下屋敷(現在の墨田公園)に御臨幸「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」明治の時代、近代日本を象徴する一つがヘアースタイルでしょう。日本の長い間つづいた伝統のチョンマゲを廃止して、今のようなヘアースタイルにするのは大変だったようです。明治以前にも幕末の志士、坂本龍馬や伊藤博文などのようにチョンマゲを切った武士もいましたが、多くの人たちはチョンマゲのままでした。明治4年8月9日に「脱刀の許可」と共に「散髪の許可」がいっしょに出されましたが、長年親しんできたチョンマゲをあっさりと簡単に切ることは出来なかったようで、ある県ではチョンマゲのままの人に税を課せるなどして、散髪を励行したそうです。そしておもしろいのは当初は男性よりも女性のほうが好んで散髪しました。当時の新聞には「女子の断髪は見るに忍びず」(明治5年3月新聞雑誌)「婦女子の髪は従来通り」(明治5年4月新聞雑誌)などの記事があり、近来婦女子がザンギリ頭になるのは趣意を取り違えていると批判しています。そしてあげくの果てには政府から5年の4月「女子断髪禁止令」が出るほどでした。現代なら男女不平等・男女差別で訴えかねないところです。さて、明治天皇は近代化を進めるにあたって率先して御自ら実行しなければいけないとお考えになられ、明治6年3月20日断髪なさったそうです。この日いつものようにきれいに御髪(おぐし)を結い上げて、御学問所(天皇または皇太子の修学する所)へ出御(天皇・三后がお出ましになること)された陛下が、そのお帰りにはすっかり散髪・ショートヘアーになさっていたので、お迎えに出ていた女官たちが大いに驚いたと伝えられています。そして陛下の御断髪をきっかけに庶民もこれにならって、われ先に散髪を行うようになり、断髪の普及をつくるきっかけとなりました。人が知らず知らずのうちに犯した罪や過ち、心身の穢(けがれ)を祓い清めるための神事を「大祓」といいます。大祓の「大」は「公」の意味で、つまり個人だけの祓いではなく、日本国中の祓いなのです。毎年6月と12月の2回、その月の末日に全国の神社で行われ、6月の大祓を「夏越しの(大)祓」、12月の大祓を「年越しの(大)祓」ともいいます。大祓の起源を見てみると『古事記』に仲哀天皇が崩御されたとき、「国の大祓」を行った記事が出ています。また平安時代初期の国家の法制書『延喜式』にも、6月と12月の大祓が記されてあり、古くから行われていたことがわかります。大祓には「形代<かたしろ=人形>」(撫物<なでもの>ともいい、紙を人の形に切り抜いたもの)に、名前と年齢を書き、さらにその形代で身体を撫でて息を吹きかけます。そうすることにより、自分の罪穢を移し、それを海や川などに流し、わが身の代わりに清めてもらいます。話が少し横道にそれますが、3月3日に行われるひな祭りで「流し雛」の行事がありますが、この「流し雛」はもともと形代が原型で、流し雛の行事自体が大祓と同じ罪穢を祓う神事でした。また、うっとしい梅雨になると「てるてる坊主」を軒さしに吊るして晴れることを祈りますが、このてるてる坊主も形代が原型です。ちなみに坊主頭をしているのは晴天の祈願をしたのが旅の僧や修験者だったからだそうです。大祓の話にもどりますが、6月の大祓では神社によって「茅の輪くぐり」が行われます。茅の輪をくぐるとき、「水無月の夏越の祓する人は千歳のいのちのぶといふなり」(拾遺和歌集)という歌を唱えるそうです。茅の輪の起源については、『備後風土記』逸文に蘇民(そみん)と巨旦(こたん)の兄弟がいて、ある時スサノオの神が宿を求めた際、弟の巨旦は泊めさせなかったのですが、兄の蘇民は快く泊めて優遇したのでした。スサノオの神は蘇民の一家に茅の輪を渡し、「もしも疫病が流行したら、その茅の輪を腰につけなさい」といって去りました。何年か後疫病が流行した時、そのとおりに茅の輪をつけたら、疫病から逸れることができた故事に基づきます。このように古代・中世を通じて行われた大祓ですが、残念なことに応仁の乱によって長い間、大祓の行事が行われなくなってしまったのです。しかしこれをもとのように再興したのが、実は明治天皇さまなのです。明治4年、明治天皇の思し召しで賢所の前庭にて大祓が行われ、翌5年には全国の神社で行うように布告が出て、以来応仁の乱により400年間も途絶えていた大祓が再興されるようになったのです。平成7年「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が改正され、平成8年から7月20日の「海の日」は「海の恩恵に感謝し、海洋国家の繁栄を祝う」趣旨により祝日となりました。ところでなぜ、この日が選ばれたのでしょうか?明治9年(1876)6月2日、明治天皇さまは東北・北海道御巡幸これを記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され、平成8年から「海の日」として祝日となったわけです。またこの時に御乗船された御召艦は、灯台巡視船「明治丸」です。明治6年に英国グラスゴーのネピア造船所に発注して、伊藤博文が「明治丸」と名付けました。8年2月横浜に回航され、その後灯台巡視船として活躍し、明治天皇の御巡幸に際しては東北・北海道御巡幸を初めとして数次にわたって御召艦となりました。この他小笠原諸島や硫黄島の領有権調査にも活躍し、明治29年に現役を退き、商船学校(東京商船大学の前身)に譲り渡された後は、係留練習船として、以来50余年にわたり5千人以上に及ぶ海の児を育てました。終戦後昭和26年まで米国軍に校舎と共に接収され一時荒廃しましたが、昭和53年5月、我国に現存する唯一の鉄船(現在の船は鋼船)であり、造船技術史上貴重な船として国の重要文化財に指定されました。その後文化庁及び東京商船大学の手により修復が行われ昭和63年1月に完了し、現在同大学に保存されています。一般公開されていますので、ぜひ見に行ってください。「海の日」を通して「海の恩恵に感謝」する気持ちと、明治天皇を中心に国民が一致協力して世界に雄飛した明治の時代を敬慕し、その精神を偲びながら新しい時代に向けて進んで行きたいものです。習志野は現在千葉県北西部にある住宅都市の地名です。実はこの「習志野」の名付け親は明治天皇なのです。この地はもと下総国千葉郡小金原(こがねはら)の一部で大和田(おおわだ)の里と呼ばれ、江戸時代は幕府直轄の牧場の一部でしたが、明治4年牧場が廃止され軍の演習地となりました。明治6年の4月29日、明治天皇は演習を御覧になられるため、みずから2800名の近衛兵を率いて将兵と共に2日間野営をなされ、将兵の苦労をご体験されたそうです。そしてその演習の中で特に指揮官の指揮ぶりは素晴らしく、指揮官のもとで近衛兵が規律正しく行動した様子を御覧になった明治天皇はことのほかご満足なされました。その時の指揮官をしていたのが篠原國幹(しのはらくにもと)陸軍少将でした。天保7年(1836)12月5日に薩摩(鹿児島県)に生まれ、少年の頃から藩校造士館に学んで頭角をあらわし、文久3年(1863)に薩英戦争において戦いに加わり、明治元年の戊辰戦争には小銃三番隊長として活躍し、明治2年には鹿児島常備隊の隊長、4年には御親兵の大隊長となり、5年7月には近衛局出仕を兼ね陸軍少将になった人です。この演習後の5月13日に明治天皇は篠原少将を皇居へお召しになられ、今より後は演習した場所を「習志野原」(「篠原に習え」の意味)としなさいと仰せられ、以来この地は習志野と呼ばれるようになったのです。明治天皇の御製にがあります。この習志野原が明治6年陛下が御統監になられて以来、草が生えないぐらい、もののふこの習志野原の演習は外苑聖徳記念絵画館に「習志野之原演習行幸」と題して絵画が展示されています。昭和23年7月20日に祝日法が公布され、11月3日は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」の趣旨によって祝日「文化の日」となりました。実はこの日は明治天皇の御誕生日にあたり、戦前は明治節と呼ばれていたのです。はじめに明治の元号について説明します。元号とは年につける称号で、漢の武帝明治維新になり、岩倉具視はこれらの学者の意見を採用して、天皇一代の間は1つの元号にする制、つまり一世一元を制定したのです。そして明治の改元にあたっては学者の松平慶永さて、次に本題の明治節について説明します。11月3日は先ほども説明しましたように、明治天皇のお誕生日です。戦前までは天皇誕生日は「天長節」大正14年に11月3日を祝日に制定する請願運動が行われ、2万名の署名が議会に提出されて同年2月23日、満場一致で可決されたのですが、大正天皇の御病気が悪化していたので、貴族院での審議は中断してしまいました。審議が再開されたのは昭和の御代にはいってからで、昭和2年の3月3日、明治天皇の御聖徳を敬仰して「明治節」として制定されたのです。以来、明治節は国家の大切な行事とされ、「四大節」今ではもう日本にしか存在しない、しかも1300年以上も続いている元号の伝統と、近代日本の礎をお築きになられた明治天皇の御遺徳を偲ぶ意味でも、11月3日の明治節の精神を永久に子々孫々へ伝えていきたいものです。明治の由来にはいる前に元号についてご説明いたします。そもそも元号は、漢の武帝の時代の中国に生まれて、朝鮮、日本などへ渡ってきた年の数えかたです。日本で最初に用いたのは大化の改新で有名な「大化(たいか)」(六四五年)の元号ですが、中国や朝鮮ではすでになくなってしまい、日本だけがこの伝統を守っています。「明治」の出典は『易経』の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとって名付けられました。明治改元にあたっては、学者の松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶応4年(明治元年)9月7日の夜、宮中賢所(かしこどころ)において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました。翌8日の一世一元「明治」の意味は聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まる、と解されています。 参考に「大正」「昭和」「平成」の出典由来についても書いておきます。「大正」の出典 『易経』 「大亨は以って正天の道なり」 天が民の言葉を嘉納し、政(まつりごと)が正しく行われる。「昭和」の出典 『書経』 「百姓昭明、協和万邦」国民の平和と世界の共存繁栄を願ったもの。「平成」の出典 『史記』 「内平かに外成る」内外、天地とも平和が達成されるとの意味。『書経』 「地平かに天成る」新元号制定は、元号法(54年成立)に基づき、「元号選定手続き」(同年閣議了承)に沿って進められた。首相の委嘱を受け国文学、中国文学、歴史などの学者が提出した候補名を小渕官房長官と味村法制局長官が整理検討して竹下首相に報告。さらに学識経験者ら国民代表や衆参両院の正副議長らの意見を聞いたうえ、臨時閣議で決めた。選定はの6つの基準で行われた。「へいせい」は史記および書経の「内平かに外成る(史記) 地平かに天成る(書経)」からとられた。内外、天地とも平和が達成されるとの意味。「天皇陛下バンザイ!」「日本バンザイ!」「人間バンザイ!」……一見、明治神宮と神道には何の関係もないように見えるのですが、ところがこれが大いに関係あるのです。 「ばんざい」(万歳)を「広辞苑」で引くと、 ①長い年月。よろずよ。 ②いつまでも生きること。いつまでも栄えること ③めでたいこと。祝うべきこと。 ④貴人の死を忌んでいう語。 ⑤祝福の意を表すため両手をあげて唱えること。 ⑥転じて、お手上げの状態、すなわち物事に失敗したり、どうにもならない状態になったりすることを 言う語。などの6つの意味が出ていますが、古代中国・日本では①から④までの意味で使っていたようです。 そして日本で最初に「萬(万)歳」の記録が出てくるのは『日本書紀』からです。雄略天皇5年2月、天皇が葛城山に狩にお出ましになられた折に「萬歳」の語が初めて出てきますが、当時は「よろづよ」または「よろづとせ」と読まれていたようで、意味としても②と③に近いようです。 時代が下って『栄花物語』には「けふは ばんぜい(萬歳)」とあり、また即位礼やその他の賀宴で奏される神楽「萬歳楽」は「まんざいらく」と読み、神楽歌・千歳の末歌にも「まんざい(萬歳)、まんざい、まんざいや、よろづよのまんざいや」とあって古代・中世にかけては「ばんぜい」または「まんざい」と呼ばれていたようです。そして近世になっても戦国時代に作られた『日葡辞書』には「萬歳」はやはり「ばんぜい」「まんざい」と発音していました。 つまり古代・中世・近世を通じて「ばんざい」の呼び方が出てこないのが解ります。では、いつから「バンザイ」の言葉が出てくるのでしょうか? 実は明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布式の慶祝の際に「バンザイ」と称されたのが最初です。近代日本の門出とも言えるこの良き日に、宮城外にて陛下をご奉迎するにあたり、どのような言葉で陛下に対し慶祝の発声をしたらよいか議題が上がったのです。 なぜかと言うとそれまで日本には一同で慶賀を発声する統一された言葉がなかったからです。ところが西欧においては君主や大統領が通るときに帽子やハンカチを振りながら、「Hurray!(フレー)」と言ったり、式場では「Long・live・the・King!(ロングリヴザキング)」「Long・live・the・Queen!(ロングリヴザクウィーン)」(王バンザイ・女王バンザイの意味)またフランスでは「Hourra・le・France!(ウィララフランス)」(フランス バンザイの意味)と唱えていたんですね。ですから日本でも統一した祝福の言葉を考えようという事になったのです。 はじめ文部省から「奉賀」という案が出ましたが、続けて発声すると「ピン」とこないのですぐに「ダメ!」となりました。次に臨時編年史編纂掛のほうから「萬歳」の提案が出て、それでいこうとなったのです。しかし「ばんぜい」では「パット」しない。また「まんざい」では漫才みたいで厳粛さがない。 そこで後に文部大臣・東京帝国大学総長になった外山正一博士の意見で漢音と呉音を交えて「バンザイ」としたらどうかという意見が出て、協議の結果全員一致で賛成となり、いよいよ11日の当日、発案の外山博士が音頭をとって二重橋外において陛下奉迎の際、声高らかに「バンザイ」を発声したのが最初でした。 以来「バンザイ」は世界に通用する祝福の言葉となったのです。一般の人たちは聞き慣れない言葉で、何のことかわからないことと思います。なぜかというと歴史の教科書にはほとんど出てこないのです。ところが日本では知らなくても世界の人々の方がよく知っているのです。 昭憲皇太后は明治天皇の皇后で、明治神宮の御祭神でもあります。この基金は明治45年(1912)、皇太后がアメリカのワシントンで開かれた第9回赤十字国際会議のさい、国際赤十字に対して贈られた10万円(現在の金額で約3億5千万円)をもとに創設されました。この基金は、ジュネーブに本部がある赤十字国際委員会と赤十字社連盟が共同管理にあたり、創設から10年目の大正10年(1921)から基金の利子を世界各国の赤十字社に配分し、保健衛生事業や災害救護活動などに使われています。この利子の配分は昭和19年を除いて絶えたことがありません。 実はこのような基金は、ほかにもあったのですが、いずれも運営難に陥り、昭憲皇太后基金が現在、世界唯一の存在なのです。ではなぜ現在も残って利子配分が出来るのでしょうか? 実は基金が増額されているのです。大正天皇の皇后・貞明皇后や香淳皇后、そして日本赤十字の名誉総裁であらせられます現皇后陛下も基金を下賜、増額されているのです。また明治神宮崇敬会においても会員の寄付や、外務省、それに基金の趣旨に共鳴して下さる個人等の寄付で現在においても増額されつづけています。 現在この基金は毎年ご命日の4月11日に世界の赤十字社へ援助金の配布を行い、医療と福祉の充実に大きく貢献しています。明治天皇の御尊影といえば代表的なのが明治神宮宝物殿にある御肖像画です。質問に対してのお答えですが、明治21年、陛下37歳(数え年)のときの御尊影です。実は撮影されたのではなく、コンテ画で描かれたのでした。 そのころ明治天皇の公式な御肖像写真がないことで、臣下たちは長いあいだ頭を悩ませていました。当時は諸外国の君主と御肖像を交換することが慣習となっていたのですが、それまで陛下の正式な御尊影は明治5年に撮られた束帯 宮内大臣より陛下へお写真をお撮りになるように御進言したのですが、写真嫌いの陛下はどうしても御許可をなされませんでした。どうしようか困っていたとき、宮内大臣に就任したばかりの土方久元 写真がだめなら写生だったらどうだろうか・・・しかしこれを陛下に言上しても御許可して頂けなかったので、ひそかに拝写するしかないと考えたのです。そしてその写生を依頼したのが、当時印刷局のお雇い外国人だったイタリアのエドアルド・キヨッソーネ(1832~1898)でした。 キヨッソーネはその話を聞いて大変に感激し、さっそく明治21年1月14日、陛下が芝公園内にある写真弥生社 しかし陛下は御肖像画を御覧になったとき、無言のままその場では何もおっしゃらなかったそうです。土方大臣は陛下が知らない間に書き描かれたことをお怒りになったのかと思い、不安になりました。しかしたまたまある国から皇族の御真影の贈与の依頼がありましたので、土方大臣はもう一度おそるおそる、陛下にこの御肖像画を贈呈してよろしいか、お伺いしました。 その時、明治天皇はすぐに親署されたそうです。土方大臣はおおいに喜びました。なぜかというと、親署されたということは、すなわちお許しになられたということだからです。 以来、このキヨッソーネが描いた御肖像画は全国に下賜されるようになり、明治天皇の御尊影といえば誰もがキヨッソーネの描いた御肖像画を思い描くほどになったのです。(ひじかた・ひさもと) 天保4年~大正7年(1833~1918)土佐藩士。維新後、江戸府、東京府の判事。後に宮中顧問官、農商務大臣、宮内大臣、枢密顧問官などの要職を歴任。晩年は主として聖徳講話などを行い、教育関係の仕事に尽力した。明治の時代、日本人は欧米人から矮小(たけが低く小さいこと)民族とみられ、当時「五尺(150cm)の大女」という語があったくらいで、男性でも150cmから160cmまでが普通でした。 そのころ長身といわれた人物に維新の三傑、西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通などがいますが、その中でも断然体躯がすぐれて大きかったのが明治天皇だったとされています。 当時は陛下の身長を測って服を調製するなど許されなかった時代ですので、身長の目測もまちまちで、五尺六寸(168cm)、同七寸(171cm)、同八寸(174cm)、中には六尺(180cm)と誌されたものもあり、外国の新聞には陛下の身長を170cmと記されていたそうです。唯一『明治天皇紀』には測定された記事が出ていて五尺五寸四分(約166.2cm)と記述がありますが、これは御生前ではなく崩御直後に御遺体を計られたものとされています。 また陛下のお近くでお仕えしていました高倉篤麿の身長が168cmで陛下の鼻のあたりといわれ、多摩丘陵のウサギ狩りに陛下がお立ち寄りになられた富沢家の鴨居の高さが174cmでその下を通られた時ちょっと屈められたという逸話もありますので、170cm以上あったのではないかと想像されます。 次に体重ですが、陛下を乗せた御料明治天皇さまのお后(きさき)さまなら「皇太后」でなく「皇后」とお呼びするのが正しいのではないかという考え方もございますが、実はこのいきさつについてはたいへん難しい問題があります。 昭憲さまは嘉永(かえい)3年(1850)4月17日(新暦5月28日)一条忠香(ただか)の三女として御誕生あそばされました。はじめ勝子(まさこ)、富貴君(ふきぎみ)、寿栄君(すえぎみ)などと呼ばれ、入内(じゅだい)ところがこの御祭神名について有識者の中から疑問の声が出てきたのです。1.