幼少時代からの極貧生活の反動で、一流選手になってからは金遣いが非常に荒かった。超一流ブランドの衣服、時計、装飾品を毎週のように買い込み、スーツは250着、ネクタイはその倍をいっていたという。沙知代夫人と初めて出会ったときも沙知代夫人と再婚してからは、夫人が一切現預金を管理しているため、現金を持たせてもらえず、クレジットカードだけ持たされていた。ある日、一流ブランド店に行った時、服や宝飾品、時計を眺めていると、店員に言葉巧みに買わされてしまった。そこで、「監督、(クレジットの明細書に)サインして」と言われ、かつクレジットカードの仕組みが分からず、「カードを見せてサインしただけで、なんで商品をくれるんだろう」と思っていたという。おまけに、クレジット明細が沙知代夫人の元に届くことを知らず、いつ、どこで、何を、いくら買ったかが全てバレてしまい、夫人から追及され、「オレの後をつけて来てるやろ、嫌らしい女やな」と言ったという。キャッシュカードで現金を引き出す際に暗証番号が必要であることも知らず、「選手がやるとお金がジャージャー出てくるのに、自分がやるとなぜ出来ないのが不思議だった』という。 2006年は昨年続き最下位に終わり、飯田徳治、別当薫、根本陸夫、2006年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを賭ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。このことは球団側も聞かされておらず、2007年シーズンは新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。投手陣では2008年6月29日のソフトバンク戦で球団史上最多20安打の猛攻で15点を奪い大勝。この日は73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。7月5日、対西武戦(同年7月15日、日本ハム(東京ドーム)戦で監督として通算3,000試合出場を達成、選手としても通算3,017試合に出場しており、日米ともに前例のない、選手・監督両方での通算3,000試合出場を達成した。この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。同年シーズンを以って3年契約が終了。去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。野村自身もそれを受諾し、2009年も引き続き楽天を指揮することになったが、2009年シーズンは開幕から投手陣を中心に怪我人が続出した。特にドラフトで獲得した新人投手全員がオープン戦前に故障してしまい、レギュラーシーズンが開幕するとチーム初の開幕4連勝で好スタートを見せ4月を首位で終える。しかし、怪我人が続出した5月以降は調子を落とし、交流戦では最大6連敗を喫し、7月には3年ぶりの8連敗、一時は5位にまで後退するが、8月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。9月以降も好調を維持し、9月12日のソフトバンク戦(翌々日・11日にKスタ宮城で行われたレギュラーシーズン最終戦(ソフトバンク戦)終了後、球団から契約を更新しない旨を告げられ、同年シーズン限りでの退任が決定した。16日に開幕したCS第1ステージではソフトバンクに2連勝し第2ステージ進出を決めたが、21日開幕の第2ステージでは日本ハムに1勝4敗を喫し、日本シリーズ出場はならず。日本ハムのCS優勝セレモニーの後、楽天と日本ハム両軍の選手・コーチに胴上げされた。11月2日、楽天の新監督に退任決定の際に「人生に疲れた。クビと言われ、どっと疲れが出てきた」と語った。さらに「ユニホーム姿もいよいよ秒読みだが、やっぱりオレは『元南海』がいい」とも口にした。2009年が、ユニフォームを着た指揮官として最後の年となった。 最初に2連覇した後は日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。ヤクルト監督時代の成績は1187試合628勝552敗7引き分けで勝率.532現役晩年を野村指揮下で過ごしたその講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時「常勝軍団」としてNPB界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら実践していなかった深いものだったと語っている。特に打球カウント別の打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを感づかせてくれるような機知に富むものであったという。 選手としてオールスターゲーム通算21回出場、48安打の最多記録を持ち、最年長出場選手(1980年、45歳)でもあるが、オールスターでは打撃不振で知られた。しかし1972年の2010年5月10日、2014年10月16日、解離性大動脈瘤で1ヶ月入院したことを明かした。 解任後は進退について大いに悩み、多くの知人にも引退を勧められたが、現役続行を選び、以前より誘われていたロッテに移籍した。南海の選手のうち、野村の解任に反対していた南海退団直後の1977年11月17日、1978年12月1日、野村が引退を決めたのは現役最後の年である1980年9月28日の阪急戦(ダブルヘッダー)だという。この日、野村は捕手として第1試合にスタメン出場。4-3と西武が1点を追う展開の8回裏、1死満塁で迎えた野村の打席で、根本監督はここまで3打数ノーヒットだった野村に実働26年の選手生活で唯一となる代打(11月15日、記者会見を行い現役引退を正式に表明した。翌16日のなお、打席時に着用したヘルメットは南海時代から引退まで、塗装を塗り替えながら使用し続けた。そのヘルメットは引退後西武球団に保管されていたが、5年後に1981年からTBSテレビ・1989年1月、1989年10月、野村は沙知代の長男である本社社長の桑原が野村の招聘活動を進める一方で、球団社長の相馬は8月からこの年限りでの現役引退を表明していた就任会見で桑原は「野村監督は、私が中心となって決めました。私がオーナー代行も兼ね、全社をあげてバックアップしますコーチ陣は、打撃コーチ(ヘッド格)に南海時代からの参謀である高畠康真が就任した以外は、球団側の用意したヤクルトOBで固められた1990年、データを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Important Dataを意味する造語1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振(1979年以来12年ぶりにBクラスに転落)などもあってAクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たした。二塁手からID野球に倣い、IDバレー(1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝。胴上げ投手はこの年ケガから復活したベテラン1993年は1994年は投手陣や古田など怪我人が相次いだこともあり、5月中旬を境に低迷。1995年は、投手の1997年の開幕戦(対巨人)、前年広島を自由契約になり獲得した1998年は4位に終わり、同年9月21日に退団した。 なおこの年の8月7日の対ヤクルト戦、3回表無死一・二塁で、阪神・2000年は、4月の9連勝(1分け含む)で首位浮上した時は「今年は違うぞ」の印象を与えたが、すぐさま6連敗2001年10月19日に野村の2002年シーズンの監督留任が発表され、ヘッドコーチに結局、阪神監督としては3年連続最下位で終わった。 捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うことを得意とした。この策は「このささやき戦術は多くの選手に影響を与え、有名選手を中心に様々なエピソードを残している。ただし、この戦術が全く通じない選手も存在した。王貞治はバッターボックスに入るまでの雑談には応じたものの、いざ投手と構えると集中し、話を全く聞かなかった。長嶋茂雄は、野村のつぶやきに「よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と意に介さずに会話を続けたり、かみ合わない話を返したりするなど全くささやきが通じなかった。さらに動揺を誘う為「(バッティングの)フォームが少しおかしいんじゃないの?」と長嶋にささやいた際には、「本当?ちょっと待って」とタイムをかけられ、1、2回素振りをした後に次の球を本塁打にされてしまった。そしてホームインした長嶋から「教えてくれてありがとう」と言われ、野村は唖然としたという。天才肌の1965年オフ以降、恩師であった鶴岡一人との確執が表面化しはじめ、同年11月に自身の理解者であった蔭山が急逝する。1968年からはコーチ兼任となり戦後初の最下位に終わり飯田徳治監督が辞任。後任監督には監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年シーズンは42本塁打を記録。この年は大杉勝男と最後まで本塁打王を争い、ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。これに対し野村は打席数を増やすためにそれまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、本塁打を記録できず、大杉に及ばなかった。同年10月18日の西鉄戦では史上4人目となる通算2000本安打を達成。1972年には打点王を獲得した監督就任1年目は新人・ の監督だった野村克也。「ヤクルトの監督はノムさんだったんだけど、『(4番が)なんで 桧山なんや』って。だけどその後、ノムさんが阪神の監督をした時も桧山を4番にしていた からね」。 その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における対阪神戦(2002年11月6日2005年10月3日、楽天監督就任要請を受けたため同年限りでシダックス監督を退任することを発表。11月19日の対のちにキューバの監督をつとめるパチェコは「野村の野球を日本で吸収した」と語るなど、シダックスで得たものもあった。
野村 克也(のむら かつや、1935年〈昭和10年〉6月29日 ‐ 2020年〈令和2年〉2月11日 )は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身 のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家。愛称は「ノムさん」「ムース」「ノムカツ」。血液型はB型。 南海在籍時代、川勝傳オーナーに「南海を和歌山か四国に移転させませんか?」と提案したことがあった。理由は大阪府・兵庫県に南海を含めて4球団(大阪 - 南海・近鉄、兵庫 - 阪神・阪急)では観客とファンの奪い合いになることもあり、それであれば親会社であるなお、南海の後継球団である福岡ソフトバンクホークスでは、2013年に(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年を記念したプロジェクト「LEGEND HAWKS」を展開。野村に協力を要請した結果、8月31日の対楽天戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の試合前に開かれた記念セレモニーへの出席が実現した。野村がホークス関連のイベントに参加したのは、南海からの退団以来36年振り。捕手専任時代後期からの主力打者であった門田博光と共に当時の復刻ユニフォーム姿で登場した野村は、球団会長の立場で「見届け人」として参加した王に見守られながら、始球式で同ドームの右打席(門田は左打席)に立った2018年2月10日の巨人宮崎キャンプ60周年記念 ジャイアンツOB対ホークスOB戦で監督として南海のユニホームに袖を通したが「このユニホームは大嫌い。これにお世話になって、これに裏切られて。感謝と憎しみが五分五分」とコメントした前述の通り、野村は2020年2月に死去したが、メモリアルギャラリーを管理している南海電鉄は一の位と十の位を足してなど F1セブン(エフワンセブン)は2001年に、本拠地の甲子園球場が広いことや、新庄のメジャー移籍等で長距離打者が皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。