滝廉太郎と言えば、小学校や中学校で習う「荒城の月」などの名曲で知られる明治時代の著名な作曲家。日本の新しい音楽のさきがけといわれています。わずか23歳10ヶ月という短い人生でしたが、少年時代の約2年間をここ富山で過ごしています。芸術文化の街づくりを目指す富山市にとってこんな素晴らしい歴史的事実を活用しない手はありません。今回は、滝廉太郎がなぜ富山に来ることになったのか、後の作曲にどのような影響を与えたと考えられるか、今一度探ってみることにします。(月刊グッドラックとやま 編集部)「えっ?滝廉太郎が富山に住んでいたことがある?本当?」滝廉太郎は、明治12年(1879年)に東京で生まれましたが、滝家はもともと豊後国日出(現在の大分県速見郡日出町)において日出藩主木下氏に仕える名門。代々、家老などの要職についていました。吉弘氏も明治3年に日出藩権大参事になり、翌年の廃藩置県の後、改称された日出県の政務を行うなど、中心的な役割を果しています。富山城は、藩政時代は現在の城址公園の約6倍の広さがありました。しかし明治の廃城後、各地に散在した遊郭等が千歳御殿跡に集められ、三之丸も順次払下げが進んでいました。本丸御殿や石垣、時鐘台、内堀は残されていました。(現在の天守閣は、昭和29年の富山産業大博覧会に合わせて建てられました)必要のなくなった外堀は埋め立てられ、富山県中学校や県会議事堂等の新しい建物が建てられていきました。学校や寺院を建てる際には砂持奉仕が行われ、その様子が明治20年6月13日付けの「中越新聞」に掲載されています。「其模様は熟れも大八車に砂を積み載せ、車の前後左右にハ砂持等の文字を大書したる数旒の紅白旗を翻がへし、車轅の両端に長き縄を結付け、七 八歳の小児輩にハこゝが一番と晴の緋縮緬や天鵞絨の襦袢股引を着せ、華笠を冠らせなど、最と(も)美々敷扮装にて縄に取付き前駆仁和賀連の囃しを拍子にヤンヤヽヽヽと市街を打廻り行きつ戻りつ中々の賑ひなり」とみんな明るく賑やかに作業を行っていた様子が良くわかります。廉太郎少年も同年代の子供達の楽しそうな様子を眺めていたのではないでしょうか。ここで、父・吉弘氏の仕事ぶりを振り返ってみたいと思います。さて、滝一家は、明治21年4月に富山を離れます。父・吉弘が4月20日に非職になったためです。転勤ではありませんので、吉弘氏には次の仕事の当てはありませんでした。一家は、東京の麹町に転居します。廉太郎は、4月、東京麹町小学校2学年に転入し、5月に3学年に進級しています。(ちなみに、明治22年3月14日に、父が大分県大分郡長に任じられますが、廉太郎は祖母らと東京にとどまります。しかし、明治23年5月、大分県尋常師範学校付属小学校高等科第1年級に転入学しています。なお、5月31日に、病弱だった姉のリエが亡くなっています。明治24年12月末に一家は豊後竹田に転居しています。そして、明治27年5月に東京麹町の従兄滝大吉の家に寄宿し、音楽学校受験準備のため芝区愛宕町「芝唱歌会」に入っています。)ここで、滝廉太郎の傑作「荒城の月」と富山での生活とのかかわりについて、もう少し考察してみたいと思います。(参考文献)Copyright©1998 Good Luck,Inc.2003/3/25 一部追加◆富山在住期間◆ 荒城の月(作曲/滝廉太郎 作詞/土井晩翠)一.春高楼の花の宴二.秋陣営の霜の色三.いま荒城の夜半の月四.天上影はかわらねど ★滝廉太郎と縁のあった富山県人…福井直秋(武蔵野音楽学校〈現在の武蔵野音楽大学の前身〉創立者)★前述の「明治期の富山における西洋音楽の受容:文献調査による唱歌教育を中心とした歴史の再構築」(谷口昭弘、森田信一/富山大学人間発達科学部紀要,5(1);101-111、 参考リンク:富山観光遊覧船株式会社© 富山観光遊覧船㈱ All Rights Reserved.富山観光遊覧船株式会社
1902年(明治35年) ↑瀧(滝)廉太郎の銅像 クラシック音楽愛好家でも、 「この曲を聴いてるとなんだか怖くなる」 と評価をされる音楽があります。 それは、 瀧廉太郎(滝廉太郎)のピアノ作品「憾(うらみ)」 私も「憾(うらみ)」よりも悲しい曲は聴いたことがありません。 日本が誇る天才作曲家、滝廉太郎。 音楽の教科書には必ずといって良いほど登場します。 一方でどんな人物だったか、何が凄いかまで語られることは少ないですね。 今回は、滝廉太郎の人柄と生い立ちなど … その他に他の作曲家の作品の編曲も存在する。 1899年(明治32年)
滝廉太郎の合唱組曲『四季』は「春」「納涼」「月」「冬」からなる組歌で,滝廉太郎数え22歳のときの作曲で,邦人が作曲したはじめての合唱曲である.これは滝驚異の年のはじまりで,この曲を初めとし,『荒城の月』,『箱根八里』なと,次々と名曲を発表する.
瀧廉太郎先祖生誕地(屋敷跡)/現在:日出町立日出幼稚園(日出町) 『わが愛の譜 滝廉太郎物語』(わがあいのうた たきれんたろうものがたり)は、1993年の日本映画。音楽家・瀧廉太郎の没後90年を記念して製作された作品。 詩人で文芸評論家の郷原宏の『わが愛の譜 滝廉太郎物語』を原作としている。 ドイツ・
1897年(明治30年) 滝廉太郎の楽曲は日本人に馴染むように作られたものですが、結果的には世界で通用するグローバルソングとしての評価を受けることになりました。 滝廉太郎まとめ.
All Rights Reserved. 1901年(明治34年) 日本さくら名所100選 富山さくらの名所70選 お花見&歴史クルーズ 洋楽輸入以後の日本最初の本格的な作曲家です。 1898年東京高等師範学校付属音楽学校 (現東京芸術大学音楽学部) 卒業。 1901年ドイツに留学したが、発病して翌年帰国。 1900年(明治33年) わずか23歳10ヵ月という短い人生を作曲活動と音楽の勉強に費やした滝廉太郎。 作品の一部は鉄道に関する音楽にも採用されている。「荒城の月」は瀧廉太郎終焉之地・瀧家累世之墓(右)と「瀧廉太郎君碑」(左)(日出町・龍泉寺)
瀧廉太郎は、明治12(1879)年8月24日、豊後〈ぶんご〉日出藩の家老職を努めた瀧家の長男として東京都港区西新橋に生まれました。父吉弘〈よしひろ〉は、外務省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文という大政治家のもとで10年近く内務官僚として勤めたあと、地方官に転出しました。最初が明治15(1882)年11月、神奈川県少書記官に任じられ、次が明治19(1886)年8月、富山県書記官に任じられました。明治22(1889)年3月には、大分に戻り大分郡長、明治24(1891)年11月に直入郡長を歴任し、明治28(1895)年に正式に官職を辞しています。・音楽師志望 瀧は、竹田の町で多感な少年時代を過ごしました。独楽の綱渡り、歌留多や羽根突きの名人で、当時珍しい西洋楽器ヴァイオリンやハーモニカを級友の前で演奏して見せたそうです。直入郡高等小学校4年に進級したとき、青年教師渡辺由男〈よしお〉から当時県下でも数少ないオルガンが学校にあり、弾奏の手ほどきを受けることができました。また、瀧の銅像を作成した朝倉文夫は、「瀧君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は15歳、自分は11歳、この2つの教室は丁度向かい合ってゐたので、印象は割に深い。(中略)学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山(岡城跡)で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君、それは稲葉川の川瀬に和した忘れることのできない旋律であった。…」と銅像の裏面に刻んでいます。・青春の輝き最年少で音楽学校に合格した瀧は、専修部に進むとピアノ選択しました。彼の奏でる音楽は、力強く、豊かな響きと表現を湛え「ピアノ界の寵児」と評されました。端正で洗練された風貌は貴公子のようで、傑出した楽才を備え、音楽以外にもテニスの腕は学校中で右に出るものはなく、女生徒の注目を集めただけでなく憧れの対象でもありました。・廣瀬武夫との交流ロシア駐在武官として赴任していた廣瀬武夫の許に、ドイツに留学中の瀧廉太郎から「荒城の月」の楽譜が送られ、首都サンクト・ペテルブルグのサロンで知人にピアノで弾いてもらったのですが、居合わせた人々に「日本人がこんな曲を作れるワケがない」と言われ、廣瀬は大変憤慨したのでした。・土井晩翠との巡り会い ドイツ留学から無念の帰国は、アントワープから欧州航路に就航していた「若狭丸」に乗り込みました。船がロンドンのテムズ河口に5日間停泊した折り、ヨーロッパ遊学中の土井晩翠から船上において見舞いを受けました。「荒城の月」の作詞家と作曲家が日本ではなく、遠く異国の地において最初で最後の運命的な出会いをしました。・夢半ばにして 明治36年2月、瀧廉太郎の遺作となったピアノ曲「憾(うらみ)」が完成しました。作品からは、彼の悲痛な叫びが音となって伝わり、音楽に捧げた彼の短い生涯がこの曲には凝縮されています。けれども、彼の人生は、光り輝き、日本人初の西洋音楽の作曲家として、新しい日本の歌の創作に身を捧げ、多くの人の心に永遠に残る名曲を残したのでした。◎志を継いで 岡城本丸跡には、昭和9(1934)年10月に土井晩翠直筆による「荒城の月」の詩碑が建立されています。昭和22年(1947)2月29日、「楽聖瀧廉太郎45周年記念音楽祭」(第1回瀧廉太郎記念音楽祭・音楽コンクール)が岡城本丸跡の東側に建設された音楽堂(荘嶽社跡)において開催されました。音楽祭の会場は、第17回(1963年)を最後に、現在では竹田市文化会館で開催されています。以来、「西部日本高等学校独唱コンクール」、「全日本高等学校独唱コンクール」と発展し、本年度で第63回を数える声楽家を目指す高校生の登竜門として高い評価を得ている音楽祭となりました。全国大会となってから上位入賞者にはドイツ短期留学の助成金が送られています。なお、バリトン歌手の故・立川清登〈すみと〉(第2回)や「もののけ姫」で一世を風靡したカウンターテナー歌手の米良美一〈めら・よしかず〉(第43回)は、当音楽祭の入賞者で、多くの方が国内外で活躍されています。 瀧廉太郎記念音楽祭 滝廉太郎記念館[住所]大分県竹田市竹田(寺町)2120-1Copyright (C) TOKAI CITY.