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『華麗なるギャツビー』 佐藤亮一訳、講談社文庫、1974年 『華麗なるギャツビー』 橋本福夫訳、ハヤカワ文庫、1974年 『華麗なるギャツビー』 守屋陽一訳、旺文社文庫、1978年 他メディア化 映画化. 映画『華麗なるギャツビー』のネタバレあらすじ結末と感想。華麗なるギャツビーの紹介:2012年アメリカ映画。第66回カンヌ国際映画祭でオープニング作品として上映された。誰もが偉大と言い、みんなの憧れだったギャツビーが本当に欲しかったのは他でもないただ彼女の愛だけだった。 映画のネタバレあらすじを結末まで解説映画「華麗なるギャツビー」のあらすじと結末をネタバレ解説。動画やキャスト紹介、レビューや感想も掲載。ストーリーのラストまで簡単解説します。 映画『華麗なるギャツビー』のネタバレ感想を書いています!「華麗なるギャツビー」はスコット・フィッツジェラルドの書いた小説が原作で、1973年に映画が公開され、2013年にはレオナルド・ディカプリオなどで再び映画化されています。原作との比較などもしています。 映画『華麗なるギャツビー(1974年版)』は『明日に向って撃て!』『スコット・フィッツジェラルドの書いた小説が原作で、これはヘミングウェイの「老人と海」などと並ぶロスト・ジェネレーションの代表的な作品と言われています。今回は映画『華麗なるギャツビー』の個人的な感想を、ネタバレや原作との比較をしながら書いていきます!目次アメリカ合衆国東部のニューヨーク郊外にある大邸宅で、頻繁に盛大なパーティーが行われていました。パーティーの主宰者は豪邸の主であるギャツビー。しかしパーティーに来ている人のほとんどがギャツビーの事をよく知らず、またギャツビーも自室からこのパーティーを眺めるばかりで顔を出しませんでした。隣に住むニックは、ギャツビーに興味を持ちます。また、ニックがデイジーという人妻と友人である事から、ギャツビーの方もニックに興味を持ちます。かつて社交界にデビューしていたデイジーは、ギャツビーと愛を誓った仲だったのです。このパーティーもデイジーとよりを戻そうと考えるギャツビーの考えで続けられているものでした。そして二人は再会することになります…。映画と言ったら、なによりまず映像ですよね。この映画の映像的な見どころと言ったら、やっぱり1920年代のアメリカ合衆国の風景やファッションが見事に再現されているところだと思います。過去の世界って、今では映画やテーマパークでもなければ追体験できません。ジャズ・エイジとも言われるアメリカ合衆国黄金の20年代を再現した映画って、意外と少ないと思いますが、これはその代表的な作品のひとつではないでしょうか。 この映画、冒頭でいきなりギャツビーの大邸宅をカメラが動き回る所から始まります。とても個人宅とは思えないほどの広さと豪華さ!プールがついていてピアノも金色で、扉もものすごい豪華さ。目を疑うばかりの凄さでした。1920年代のアメリカは株で儲け、投資だけの不労所得であっという間に億万長者になる人が続出した世界です。その中心となったのがウォール街、つまりギャツビーの舞台となったニューヨーク周辺がその中心地だったわけです。そういうわけで、この映画で映されたギャツビー邸も映画のための虚構ではなく、実際にこういう家を構える億万長者が普通に出現した時代だったんですよね。それを実際の映像として肌で感じる事が出来たのは、ワクワクするような体験でした。映画以外では観る事すら叶わない世界ですものね!ギャツビーがしょっちゅう開く大パーティーに訪れるのは、成金の大金持ち、そしてそれに憧れる人たちでした。その人々のファッション、演奏される音楽、乗っている車などの描写が時代考証が徹底しているようで、観ていてとても面白かったです。たとえば、これがフランスやイギリスだったら、音楽隊はクラシックを演奏していただろうに、この大邸宅で演奏されるのはジャズだったりするんですよね。ジャズはアメリカ音楽で、かつ庶民階級の音楽です。アメリカには持つ者はいても、貴族階級はいないんですよね。そして、この人たちの描写がそれを助長するものでした。ひそひそと話す内容が下世話な悪口、大騒ぎしてプールに飛び込むなど、とにかく品がないのです。お金持ちになってもまだお金持ちとしての倫理や哲学を発展させられていなかった時代の、成金の心の貧しさを暗示していたように見えました。この成金の代表的な存在として描かれていたのが、ギャツビーのかつての恋人デイジーでした。この映画で最初に目をひいた俳優の芝居は超二枚目俳優で、すでにヒット作をいくつも持っていたロバート・レッドフォード以上に、ヒロインのデイジー役を演じたミア・ファローです。僕がミア・ファローをはじめてみたのは映画「ローズマリーの赤ちゃん」でしたが、そこでの芝居も見事。しかも「華麗なるギャツビー」のデイジー役とはまったく違うキャラクターです。つまり、この人は性格俳優ではなくて、色んな役柄を演じ分けられる本当に芝居上手な女優なのでしょうね。 この映画で彼女が演じたデイジーは悪気のない天然な女性。この映画をはじめてみた人が、「この女、なんか虫が好かないな」と思ったらそれがデイジーです。物語のラスト間際で、自分の身代わりになった人を気にかけるでもなく、その人の事をまるで忘れたかのようにあっけらかんと振る舞っていたり、普通だったら失礼で言えないような言葉を悪びれた様子もなくサラッと言ったり。でもそれって、そういう役柄を見事に演じられている演技の素晴らしさですよね。女優だって嫌われたくないだろうに、恰好つけたり可愛く振るまったりせず、役に徹しきったのは、さすがアカデミー賞受賞女優だと感心しました!一方、この映画は貧しい庶民の生活ぶりも映し出していました。この映画のヒロインであるデイジーの夫の愛人が住んでいる、まじめに働いている自動車修理工ジョージの家がそれでした。家は木づくりで、いかにも大工が手で作った感じ。光は射さず、はしごのように急な角度の木の階段がついていて、西部開拓時代の丸太小屋の延長線のような家でした。街道ぞいにあった看板広告も張り合わせた木の上にペンキで塗って書いたもので、これも西部開拓時代の酒場の看板みたい。こういうところの作り込みが実に細かくて、本当にすばらしいです。 この映画の半分は、1920年代のアメリカを体験できる所なのではないかと思います。1920年代の合衆国って、庶民はまだ西部劇の世界のような家に住んでいたんだなと、ちょっと感慨深いものがありました。原作小説の文字だけでは建物や服装といった空気感は分かりにくく、見たことがなければなおさらわかりません。でも映画だと、こういうところが分かるのが素晴らしいですね。20年代なのでもう自動車が行きかっていましたが、道はまだアスファルトで舗装されていない道も多く、もしここに走っているのが自動車でなく馬車だったら、そのまま西部劇の世界になりそうな風景でした。こういう「古き良きアメリカ」みたいな風景の残る街で、油まみれになって働く貧しい庶民の描写は、ギャツビー宅のパーティーで夜ごとに大騒ぎする成金たちとは対照的でした。象徴的だったのは、役名もついていない自動車工ジョージの友人のちょっとしたワンシーンでした。ジョージは、とある事故で奥さんをなくしてしまいます。その時の茫然自失ぶりはみているこちらまであわれになるほど。ここで、ジョージに声をかける友人が、本当にやさしいのです。「子どもはいたのかい」といって落ち込む気をそらしてあげようとしたり、「牧師さんに話してみよう」とアドバイスしてあげたり、とても親身なのです。損得ではなく、愛や正義をもとに行動しているのですよね。自分が人を殺しても、さしてなんとも思っておらず、自分のかつての恋人が死んでもあっけらかんと自分の事ばかり考えている成金の人とは対照的な描かれ方でした。この対比は、意図的な描写だったのではないかと思います。この貧しくも美徳を持つ人物の代表として描かれていたのが、自動車修理工ジョージでした。デイジーは社交界で愛され、派手好きで、お金持ちと知り合うと愛の言葉を交わしたギャツビーを捨てて結婚し、まるでお金を信じる事は何にも優先する事なのだという振る舞いを見せます。 それに対して、自動車修理工としてコツコツと働くジョージは、あくまで質素で正直者で、まじめな働きものです。女房が浮気していてもうたがう事すらしません。ところが、かつてのアメリカなら美徳であったはずのこうした傾向が、株を買って大金持ちになる事ばかりに目がくらんだ1920年代のニューヨークでは「貧乏人」「甲斐性なし」と蔑まされるようなありさまなのです。実際に、まじめで正直で働き者のジョージは貧乏を理由に妻に蔑まされています。そして、その妻はお金持ちの愛人になって、自分も華やかな生活が出来ると喜んでいます。愛人になって人を裏切り、高いものを買ってもらったと喜んでるんですよ…。ジョージはデイジーとは実に対照的に描かれていたのが印象的でした。デイジーとジョージが対照的に描かれているのに対して、ギャツビーはジョージからデイジーに変化していく人物のような描かれ方でした。それにしても、すこしシャイな人物を演ずるロバート・レッドフォードは、さすがに魅力がありました!レッドフォードエネルギッシュで押しの強い感じではなく、どこか控え目で古風な所がいいですね。 ギャツビーはかつてはまじめな軍人で、しかし裕福とは言えませんでした。そのギャツビーが愛を誓った相手のデイジーは、貧しいギャツビーが戦争に行っている間に、大富豪の息子と結婚してしまいます。かつて愛を誓い合ったデイジーとの復縁を夢見て、ギャツビーは悪事に手を染めながら億万長者になり(ただ、本当に悪事に手を染めたかどうかの描写はないんですが…)、デイジーの気をひこうとニューヨーク郊外に大邸宅を買い、何度も大規模なパーティーを催しながらデイジーが訪れるのを待ちます。ギャツビーは愛に忠実であるとも言えそうですが、愛を金で買おうとしているとも言えそうです。だから、デイジーと別れる前のギャツビーがジョージのようであり、デイジーとよりを戻そうとした後のギャツビーの行動の多くが、デイジーに近くも感じました。ギャツビーはジョージからデイジーへと変化したように見えます。そしてそのギャツビーは、死という最後をむかえます。ギャツビーの変化は映画では徐々に明かされる事になります。最初は姿すら見せない主人公ですからね。そしてこのギャツビーの変化は実に象徴的で、単に映画の登場人物のひとりの変化ではなく、アメリカ合衆国の変化、つまり近代から現代の西洋社会の中心地の価値観の変化を象徴しているように感じました。そういう意味でいうと、アメリカの1920年代の知識がないとこの映画が描こうとしている事が分かりにくかったかもしれません。 アメリカ合衆国の1920年代には二つのキーワードがあります。「ジャズ・エイジ」と「世界恐慌」です。1920年代と言えば、1918年に第一次世界大戦が終わった直後です。植民地支配の中心地だったヨーロッパの国々が互いに潰しあい、勝った国ですら激しい痛手を負いました。それに対して、アメリカ合衆国だけは戦地にすらならずに西洋世界でひとり勝ち状態となり、世界の中心がヨーロッパから合衆国に移りました。でも、アメリカって歴史の浅い国で、文化を育て切れていないんですよね。イギリスみたいに、お金持ちがジェントルマン文化を育てる所まで来ていませんでしたし、音楽でも、ヨーロッパや南アジアや西アジアのような高度な芸術音楽を育てる所までは来ていなくて、大衆の娯楽音楽だったジャズが代名詞のような存在でした。そういう意味でも、ジャズ・エイジという言葉は色んなものをあらわせている言葉だと思います。 そして、勤勉に働き砂漠を農場に作り替えてきたアメリカ庶民が、働かずにお金を何百倍にも増やす株式投資に熱狂し、あっという間に億万長者を生み出したのもジャズ・エイジの特徴でした。でも、実態以上に膨れ上がった投資が破裂して世界交響が起きたのもやはり20年代の出来事でした。「華麗なるギャツビー」の時代背景はこういう感じなんですよね。もうひとつ、この映画を理解するために知っておくと良いと思った事があります。「ロスト・ジェネレーション」です。この映画はネットでの評判を見ても、映画評論家さんの批評を見ても、高く評価されてるとはいえません。でも、それって少しわかる気がするんですよね。「結局何を言いたかったの?」というところとか色々あると思うんですが、そもそも、この映画が作られた1970年代の映画にしては、心をつよく動かすような作りになっていないところが、一番の原因なんじゃないかと思いました。 でもこれって、ロストジェネレーションというアメリカの世代論を知ると理解できる気がします。ロスト・ジェネレーションというのは、アメリカのある世代をあらわす言葉です。世代をあらわす言葉というと、日本でいうと「しらけ世代」とか「団塊世代」などがありますよね。ロスト・ジェネレーションは、1920年代から30年代に活躍したアメリカの作家の一群を指す言葉で、若いうちに第一次世界大戦を経験していることが共通項です。ロスト・ジェネレーションの代表的な作家というと、「華麗なるギャツビー」のスコット・フィッツジェラルドも有名ですし、「老人と海」などのアーネスト・ヘミングウェイも有名です。僕の場合、映画「華麗なるギャツビー」の面白さとつまらなさは表裏一体で、その理由はロスト・ジェネレーション文学独特のタッチだと思っています。簡単にいうと、ロスト・ジェネレーション作品はある種の虚無感があり、また情緒的な書き方をせずに突き放したハードボイルドなタッチで描かれる事が多い印象を僕は持っています。クールなんですね。これって、70年代以降のアメリカのヒット映画とはまったく正反対の傾向です。ロスト・ジェネレーションの代表作家ヘミングウェイに、「老人と海」という小説があるのですが(映画にもなっていましたね!)、これなどもギャツビーと似たクールさを感じます。話は単純で、漁師の老人が海に出て大きなカジキを3日かけてつかまえるけど、それを持って帰るまでに全部サメに食われたというものです。筋はこれだけ。最初「え?それだけ?」という感じで、何が言いたいのか分からなかったんですが、それを分かりやすく説明せずに淡々と描くのがロスト・ジェネレーションの筆致の特徴です。そして、根底には第三者視点を取るという事、見解を書きすぎないという事、そして虚無感があるのだと思います。 映画「華麗なるギャツビー」には、お金持ちになる事に熱狂した人々がたくさん登場しています。でも、ヒロインを含め彼らはみな品がありません。人をひき殺しても、自分のために誰かが身代わりになってくれても、痛みすら感じないような人間になってしまっています。愛人になって喜ぶような感覚の人間にすらなっています。レッドフォード演じるギャツビーは独特の哀愁を帯びていて、自分が何を失おうとしているのかを自覚しながら、彼らと同じ社会に生きる事を選択していきます。そのレッドフォードの乾いた笑顔は、あきらめを表現した実に見事な演技だと思いました。この映画の根底にあるのは失われていく人間の正しい価値観の喪失と、それをどうする事も出来ない虚無感なのではないかと思いました。あくまで、私の感想ですが。ロスト・ジェネレーション文学的な情緒的に描かないハードボイルドなタッチは、この映画の一人称が主人公のギャツビーではなく、ギャツビー邸のとなりに住んでいるニックである事にもあらわれていると感じました。ギャツビーを一人称にしていれば、その心の痛みなどは何倍も伝えやすかったと思うのですが、あえて他人の視点からギャツビーを見つめる事で、個人の情緒を描くのではなく、事実を俯瞰的に見つめるようにしたのではないかと思います。 ちなみに、この構図は映画オリジナルではなく小説もまったく同じです。豆知識として言うと、この映画はものすごく原作に忠実です。原作のある部分をクローズアップしてそこだけ丹念に描くという事もしてませんし、映画上の都合で主要人物をカットしたり着色したりもしていませんでした。そして、この一人称ニックがギャツビーを見つめているからこそ、これがギャツビーの情緒的な物語でなく、ギャツビーがあくまで時代の象徴であると受け止める事が出来たのではないかと思いました。「わたし」の事になると、人はいきなり情緒的な受け止めが増してしまうものですものね。ただ、「華麗なるギャツビー」の場合、映画は小説以上にクールでした。モノローグとして語る事も、極力控えているのです。 例をひとつ。ニックがギャツビーに、他の金持ち連中をののしり、ギャツビーを褒めるシーンがあります。このシーンを映画でみた時は、はじめてニックとギャツビーの心が通った瞬間に僕には見えました。でも小説だと、それはニックがギャツビーに行ったお世辞であって、ニックはギャツビーに不賛成だったと語られています。つまり、映画と小説では、セリフの意味が逆なのですよね。脚本の教科書だと、セリフで説明してはいけないなんて教えていますが、ギャツビーの場合は説明をカットしすぎて分かりにくくなってしまったのかもしれません。ニックという俯瞰者の視点を通して観るこの映画は、近代から現代へとうつる過程で変わっていった価値観を描いているのだと思いました。タッチがハードボイルドなので、それをいいとも悪いとも言っていないのですが、そこがまたクールでいい。でもこれは諸刃の剣で、それを言わないからあまり評判のよくない映画になってしまったのかもしれません。このあたりは、先にあげたような知識を持っているかどうかで、見え方が変わってくる気がします。 変わったものは、風景などにも記号化されています。正直者で働き者、困った人を助けてというかつての美的価値観は、土の道路や木造りの家などに表象されていました。人物で言えば、まじめで正直者で働き者の自動車修理工がその代表です。 一方、お金持ちになるなら亭主を裏切ってもよくて、金持ちの愛人位なる事に喜びを感じて、自分の為に誰かが死んでも気にもかけなくてという新しい価値観は、ぜいたくの限りを尽くした豪邸や高級車やドレスに表象されていました。人物では、デイジーや修理工の妻がその代表です。そして、ギャツビーの死は、いままで何十年も働いてせっせと貯蓄してきた財産を一夜ですべて失う人を量産した世界恐慌と重なります。現代にも残っているこの何かが喪失した「感じ」は、20年代のロスト・ジェネレーション文学が言い当てていたのではないかと思います。なんといっても、震源地である合衆国の作品ですものね。映画では省略されていますが、小説では一人称ニックのモノローグに、こんな言葉があります。「いまになってわかるのだが、これは結局西部の物語だった—トムやギャツビー、デイジーやジョーダンや僕は、みんな西部の人間だ。そのためだろう、みんな申し合せたように欠陥があって、不思議と東部の生活になじめないのだ。」(『華麗なるギャツビー』大貫三郎訳、角川文庫)西部がかつてのアメリカ、頭部が第一次大戦後に急速に資本主義体制を発展させた現代アメリカという事です。この映画は、ロスト・ジェネレーション文学を体験するのに、最適の入門映画なのではないかと思いました。なにより、時代の空気感が映像で伝わってきますし、原作は、僕にとっては少しむずかしい所がありました。でもこの映画は、アメリカ文学特有の哲学的な言い回しはすべてカットしてあるので、子どもが観ても分かるぐらいに分かりやすく作ってあって、難解さを避ける事が出来ていると思います。 そして、この映画を観たあとで原作を読むと、ああなるほどそういう事かと分かりやすかったです。やっぱり、エンターテイメントである前に文芸作品である作品なんでしょう。生涯に観る事の出来る映画や小説って、数が限られていると思いますが、どうせ見るなら、こういう人間の文化として高く評価されてきたもので、何かを学べるものがいいなぁなんて思った次第です。世間的な低評価には値しない、なかなかの作品だと思います!